2013年5月31日金曜日

実写で表現されるアリエッティ! BBCドラマ「The Borrwers」

実写版「魔女の宅急便」が話題になっている昨今。どんな映画になるのか楽しみだ。

おそらくスタジオジブリの「魔女の宅急便」に比べると原作である角野栄子「魔女の宅急便」を読んだ方は少ないと思われる。
魔女の宅急便 (福音館創作童話シリーズ)

 ジブリの映画では、成長したキキの姿としてウルスラ、オソノさんという女性が登場しているように思えるが、原作ではキキという少女が少しずつ大人になっていく様子がシリーズ6冊を通して書かれており、たいへん良い作品なのでおすすめしたい。 

スタジオジブリ作品は原作といってもそのストーリーをそのまま追うよりも、あくまで発送の原点として存在している印象が強いが、どれもそれぞれ個性的で良い作品だ。
例えばダイアナ・ウィン・ジョーンズの原作のハウルは映画の中野涼しげな美少年とはまた違った魅力、お人好しで素直になれない性格を持つキャラクターとして描かれている。
魔法使いハウルと火の悪魔-ハウルの動く城〈1〉

他にも「思い出ぽろぽろ」「耳をすませば」「コクリコ坂から」のようにジブリ映画から原作を読んだ、というものが私には多いのだが、「ゲド戦記」「借りぐらしのアリエッティ」については、先に原作を読んでいた。それがスタジオジブリがアニメ化するというのだから、非常に期待が膨らんだものだ。

その期待の結果はさておき、特に「借りぐらしのアリエッティ」原作であるメアリー・ノートンの「小人の冒険」シリーズには特別な思い入れがあった。
床下の小人たち-小人の冒険シリーズ〈1〉(岩波少年文庫)

さて、前置きが長くなってしまったが冒頭に書いた「魔女の宅急便」実写化の話でふと思ったのは、「床下の小人たち」もどこかで別な形で映像化されていたりするんじゃないか、という事だった。
試しに調べてみたところ、なんとこの作品は1973年、1992年、1997年と何度も映像化されている。しかも最新作はなんと2011年。タイトルは英語原作タイトルの通り"The Borrowers"となっている。




これは本当に素晴らしいトレイラー。是非、日本でも放映して欲しい。せめてHuluにやって来ないものだろうか。

このシリーズを読んだのは小学校2年生の頃だった。
私は昔からファンタジーが好きで、ずいぶんといろんな話を読んだものだが、特に好きなのはこういった物語。すなわち、現実世界の延長であり、どこかで起こっているかも知れないと思える不思議な話だ。例えば「ナルニア国物語」「はてしない物語」なども同じ特徴を持っている。

現実に生きている我々も小人を目にする事はないけれども、隠れて住んでいる小人たちは普通、人間には見つからない。もしかするとある日、ふとした拍子に小人を見つけて友達になれるかも知れないのだ。
(なお、原作アリエッティはジブリ映画と違って非常に勝ち気な少女である)

物語はそうやって子供の現実を拡張する事がある。ファンタジーの世界に入り込むのではなく、読み手のいる世界にそっと侵入し、日々の暮らしを楽しくしてくれるのだ。
子供の頃にそうした本に出会えるというのは、とても幸福な事だと思える。

2013年5月29日水曜日

ウェアラブルコンピューターは相貌失認を救うか?

ブラッド・ピットが失顔症の可能性を告白した事で、再び相貌失認(失顔症)が話題となっている。相貌失認というのは、人の顔を見てもその個体を識別できない症状の事だ。
実際どのような症状か、という事についてはこちら、「しゅうまいの256倍ブログ」の記事『顔が憶えられない「相貌失認」私のエピソード』に詳しい。

人間はただ物を見ているわけではなく、視覚情報を処理して物体を認識している。中でも顔認識は特殊な高次処理であり、それを示す例として顔倒立効果というものが知られている。顔倒立効果とは、人間の顔写真の目と口のパーツを垂直方向に反転させた写真を見せた時に、正立方向では明らかに不気味な顔になっているにも関わらず、倒立方向ではわずかな違和感を感じるに止まるというものだ。サッチャー錯視とも言う。
これは、人間がコミュニケーションを図りながら生きていくうえで、相手の表情や個体の違いが重要であるため、目や口のパーツを認識する処理を過度に学習してしまうからだと言われる。すなわち、倒立画像においても成立方向の目や口を認識し、違和感を感じなくなってしまうのだ。

しかし、相貌失認の症状が見られる方の場合、この効果が現れないと言われる。
例えば「相貌失認患者の全体処理システムに関する研究」では相貌失認の方に関してはむしろ倒立顔の認識が正立顔よりも良好という結果を残している。

相貌失認が深刻なのは、それが脳機能のなんらかの障害から来ているため、賢明に顔を憶えようとしたり、注意を払ったとしても効果がないか、著しく効率が悪いと見られている点にある。

さて、相貌失認の症状あるなしに限らず、人の顔が憶えられないで困っているという方は数多く存在する。例えば私もその一人で、何度か会った事のある方に初めましてと言って名刺を渡してしまったり、話しかけられても誰だかわからずに話を続けてしまったりといった事は日常茶飯事である。定量的に測定した事がないので、自分の顔記憶レベルがどの程度なのかはわからないが、年間を通じて割と大量の人に会うし、講義や講演などを行うと、自分は相手を認識していないが相手からは認識されているといった事が多い割に、それに耐えるだけの記憶力がないからだろうと思っている。

先に挙げたしゅうまいさんのblogでデパートの試着室に入って出ると対応してくれた店員さんの顔がわからなくなる、という話があったが、これも私はよく体験する。
おそらくはそもそも相手の顔を見ていない、注意を払っていないために起こる事だ。試着室に入ってからしまったと思うわけだ。

さらに私は人が相手の場合に限らず非常に忘れっぽく、注意を払わずに無意識に何かをしてしまうという事が非常に多い。広いショッピングセンターの駐輪場でどこに自転車を止めたかわからなくなったり、コインロッカーに荷物を入れたものの、それがどこのコインロッカーだかわからなくなったりして痛い目にあったりする。

で、それをどうしているかという話。私は基本的にいつでもiPhoneを持ち歩き、それを首から下げている。そして自転車を置く時やコインロッカーに荷物を入れる時には必ず周囲の様子も含めて写真を撮るのだ。
意識して何度も繰り返した結果、今はこの作業も自動化され、写真を撮るところまで無意識で行えるようになった。撮った事を憶えていなくてもカメラロールに写真が入っているので、自転車を止めて写真を撮ったという事は確認できるわけだ。

しかしこの方法は店員さんの顔を憶えるには使えない。家の鍵を閉めたかどうか、という事を確認するのにも使えない。また、上記に写真を撮る習慣をつけたとさらっと書いてはいるが、元々私がそういった事を身に付けるのが好きな性分だからストレスを貯めずにできるわけで、万人にお勧め出来るわけではない。

だが例えば、自分が意識していなくても自分の見たものの写真を定期的に撮ってくれたり、動画を撮りためておいてくれたとしたらどうだろう?
例えば家の鍵を閉め忘れたかも知れない、と思った時には家を出る時の動画を確認すれば良い。
これは単にビデオカメラを装着して行動すれば良いという事ではない。長い動画の中身を検索するのはなかなか大変だ。
例えばSONYのTorneはサーチの際に高速でサムネイルを展開し、検索性を上げている。しかもそのスケールを数分単位かは15秒単位で瞬時に切り替える事が出来る。そのため、二時間の番組から必要な場面まで簡単にたどり着けるのだ。
実際撮りためた映像を活用するにはそういったインターフェイスが不可欠である。あとはその映像を参照するためのデバイスも当然必要だ。

それらを満たすのは記録装置、それを高速で検索するためのインターフェイス、そして情報を表示するためのディスプレイを備え、常に携帯する事の出来るウェアラブルコンピューターである。

対応してくれた店員さんの顔を忘れてしまっても、ちょっと前の動画に戻って自分の視界に店員さんの顔を確認する事が出来れば、相手を特定する事も可能だ。
毎日撮りためておこうなどと思っていなければ1Gb/hくらいの動画を一日分保存するくらいは難しくない。

後処理で撮りためた映像の中から出会った人をピックアップして画像保存しておき、現在見ている光景の中にいる人を判別出来ると良い。名刺をもらった際にその画像を解析して個人を紐づけできたりすると非常に便利だ。

もちろん、身につけていてもおかしくないような記録装置やディスプレイがどのように実現されていくのか、という事に関して現状ではなんとも言えない。Googleの提唱するGlassに関しても、あの形で世間に受け入れられるようになっていくのか、それとももっと自然に溶け込むようなものが出て来るのかはまだわからない。

ウェアラブルコンピューターは現在の社会にとって未知の領域である。米国でもGoogle Glassに対する賛否の声があり、早くもGlass禁止のレストランなど出て来ている。日本国内でもそう易々と皆がウェアラブルコンピューターを使うような社会は来ないだろう。

しかし、現在すでにコンピューターはただ便利なものという存在を越えている。前述したように私の生活はiPhoneやその他のデジタルデバイス、サービスによって快適に成り立っている。コンピューターはすでに自己を拡張する欠かせないものであり、私に限らず多くの人間はコンピューターによって記憶力、計算力、検索能力などを大幅に拡張されているわけだ。

今回は例として相貌失認の話を上げているが、例えば視覚や聴覚の障害などに対しても様々な対処が出来るかも知れない。例えば見えにくい色、見分けにくい色を見分けるための「色のめがね」などもウェアラブルデバイスにあると便利な機能の一つだ。

多くの人が常にコンピューターを身に付け、呼吸をするように活用する世界はいずれ間違いなく来るだろう(ここで何年後、と予想する事に関してはあまり意味がない、何故ならこういったものは徐々に浸透していくのではなく何かのきっかけで急に広まる事が多々あるからだ)

それに伴って生じる様々な問題はもちろん解決していかなければならないが、すでにコンピューターによる拡張された世界に生きていると感じる私が想像する以上に、多くの人間がウェアラブルコンピューターによって救われるのではないかとも思う。

2013年5月28日火曜日

空駆け地を疾走するクアッドコプターカー "B go beyond"


Kickstarterのプロジェクト、B go beyondが面白い。



220mmという経の大きなドライビングリング(よく見ると車輪ではないではなく無限軌道!)で自由自在に走行できるうえに、その内側に取り付けられた4枚の7インチプロペラによって飛行が可能という代物。陸上を走るクアッドコプター、もしくは空飛ぶラジコンカーだ。
落下にも耐える丈夫なポリカーボネートのボディーと剛性の高いシャーシを持ち、720pのカメラで内臓SDカードに映像も記録可能。連続飛行時間は15分と言う事だ。

空陸両用のものとしてはイリノイ大学のHyTAQ Robotや自衛隊の球体飛行体などもありいずれもクールだが、このBは過去の例ともまた違い、非常にスポーティで洗練されている。

2012年5月27日現在、このB go beyondはKickstarterで資金集め中。$320の出資で組み立てキット、$370以上で組み立て済みのBを入手可能だ。AR DroneがAmazon.comで$185だが、この革新的なマシンは$400でも高くはないだろう。


制作者である"B"さんは英国サザンプトン大学の博士課程におり、米国DARPA(国防高等研究計画局)のコンペ、UAVForgeの2012年大会で150のチームを破り優勝を果たしている。
その彼の夢は大きい。
Kickstarterにはこのマシンはあくまでホビー用だが、将来的にはソーラーパネルを装備し、人が乗れるサイズのものを作成して人命救助に役立てたいとある。

もちろん、実車とラジコンの間には大きな違いがあり、その難易度は非常に高いだろう。しかし、ただ夢を語るのではなく、ラジコンという形でプロトタイピングを行い、実体化して見せるからこそ他人にもその可能性は伝わるし、応援したくなるのだ。

いつの日か映画ではなく現実でこんなマシンが活躍する日が来るかも知れない。

※2013年6月26日追記
Kickstarterでのクラウドファンディングは成立したようです。
これを書いている時点で7日を残し£105,595/£86,500という状態。
発売が楽しみですね。

2013年5月23日木曜日

冷覚と温覚の不思議

ごく最近、日本バーチャルリアリティ学会主催のバーチャルリアリティ技術者認定講習を受けた。

教科書として使われているバーチャルリアリティ学は非常に多岐に渡るバーチャルリアリティの知見を一冊にまとめた大ボリュームの書籍で、インターフェイスや実装の話だけでなく、生理学的な人間の知覚や記憶の仕組みなどにも言及され、改めて学ぶ価値のある一冊だと言える。
特に私にとって意義深かったのは、人間の五感や神経、脳の仕組みなどに関して学んだ事だった。
現象としては理解していても、何故、どのようにそうなるのか、という事を考えるには人間の仕組みを学ぶ必要がある。それらについて元々ある程度の知識はあったが何故、どのようにという視点での理解には欠けていたと言える。読む、知るという事と学ぶという事の間には大きな隔たりがあるのだと実感させられた。

さて、表題の件は人間の温度感覚に関する話だ。

人間の皮膚表面には無数の機械刺激受容器が点在している。機械受容器は複数種類存在し、それぞれの特性に合わせて刺激を受け取りって電気信号を発し、末梢神経系を通じて中枢神経へと情報を送っている。人間の器官を表現するのに機械刺激、という言葉を使っている事に違和感を覚えるかも知れないが、ここでは化学変化を伴わない刺激の事と理解しておけば概ね問題ない。

この機械受容体がつながっている神経繊維は、髄鞘よ呼ばれる絶縁性の物質で覆われた有髄線維と、それらがない無髄線維の二つに分けられる。また、神経は太いほど伝達速度が速くなるため、感覚受容器ごとに刺激を受けてから脳に伝わるまでの速度に差が出てくる。

バーチャルリアリティ学ではいくつかの代表的な神経系が示され、有髄と無髄に分けられていたのだが、その中で不思議に思ったのが表題にもある温覚と冷覚だった。
温覚は無髄線維、冷覚は有髄線維によって情報が伝達される。つまり、暖かさが伝わるのは遅く、冷たさが伝わるのは早い、と言う事だ。
しかし、これには違和感がある。日常生活において致命的なのは火や蒸気による火傷であり、そちらが優先して伝わるべきではないだろうか。現代においても一瞬で凍傷を負ってしまうような低温環境は稀で、進化の過程を考えればそういったものに触れる機会が出来たのはごく最近であり、無視しても良いような短い時間のはずだ。

が、調べてみたところ、43℃以上の熱に反応する侵害受容器が別に存在し、それは予想通り有髄線維によって信号伝達を行っている事がわかった。だが、ここでもう一つ疑問が発生した。15℃以下で反応する寒冷侵害受容器は無髄線維による信号伝達を行っており、反応が遅いのだ。
整理すると以下のようになる。

高熱:有髄
温覚:無髄
冷覚:有髄
寒冷:無髄

しかし、直感的には以下のようになるのが合理的ではないかと思う。


高熱:有髄
温覚:無髄
冷覚:無髄
寒冷:有髄

人体に有害なものは有髄線維で、無害な範囲内では無髄線維で伝達される方が合理的ではないだろうか?
それなりに調べてみたのだが、答えをなるようなものは発見できなかった。

そこで、この話は特に私の専門分野とは関係がないのだが、一週間ほど考えてみてもやはり気になるので触覚研究者である電気通信大学の梶本裕之先生に質問してみたところ、ご返答をいただく事が出来た。


私の理解の範囲内で書くと、以下のような事になる。

まず、寒冷侵害受容器につながるのが無髄繊維である理由。
周囲の環境に合った進化を遂げるには、長くその環境に晒される必要があるが、人体に危険を及ぼす低温は冷たさよりも寒さであり、一瞬で危険を及ぼすような寒さに遭遇した事はほとんどない。

これは納得出来る話。イヌイットがアラスカへ移住したのでさえ1万年前と言われる。

次に冷覚受容器につながるのが有髄線維である理由。
これは非常に興味深い内容で、東京大学工学系研究科精密工学専攻/精密工学科の山本晃生先生が2004年に発表した論文"Control of Thermal Tactile Display Based on Prediction of Contact Temperature"を梶本先生から教えていただいた。

人間は者に接触した時、皮膚表面の様々な機械受容体からデータを得て触った物体が何かを推定している。例えば接触による皮膚表面の変形などは容易に想像出来る。また、物体表面をなぞった際の震動なども重要な要素となる。このあたりについては梶本先生の触覚ディスプレイに詳しい。さらに上記の論文には、接触した物の素材推定において、触ってから2~3秒の皮膚表面の温度変化が強力な手がかりとなっているという事が示されている。

ここからは推測となるが、人類の進化の過程において、周囲にある多くの物質は体温よりも低温だったはずだ。すなわち、触ってから数秒で皮膚表面の温度の変化はほとんどの場合、温度の低下であり刺激されるのは冷覚となる。よって、冷覚は温覚よりも伝達の早い有髄線維なのではないかという仮説が成り立つ。

もちろん上記のような仮説を証明するのはインタラクション分野の外の話なのだが、今ある人間の機能がどのような課程を経てそうなったのか、と考える事は頭の体操以上に人間の感覚を理解するうえで重要な事だと常々思っている。
我々人間は、進化のうえに文化を積み重ね、複雑に絡み合ったコンテクストの上に生きている。そのため、生来の性質というものを忘れがちだが、そこを探求していくと、思わぬ発見などがあるかも知れない。私の主研究分野である「面白さ」についても同様の事が言える。

2013年5月21日火曜日

クマムシは何故放射線に強いのか?

時々テレビなどでも話題になるクマムシだが、私が最初にクマムシの事を詳しく知ったのは慶應義塾大学SFCのORF(オープンリサーチフォーラム)でだった。
クマムシは過酷な環境に強いという事で有名だが、調べてみたところ、いつでも強いというわけではないようだ。

クマムシは乾燥、低温、低酸素状態、高浸透圧などに晒されると無代謝状態に移行する。これをクリプトバイオシスという。特に乾燥によって誘導される乾眠(アンハイドロバイオシス, Anhydrobiosis)状態では、水分の含有量が80%から3%程度まで低下し、絶対零度近い低温から150℃の高温、6000気圧にも耐えるという。驚異的な数字である。

さて、表題にもあるが私が特に不思議と思ったのは人間の1000倍とも言う放射線耐性の話。ORFでは対応してくれたのが学生の方だった事もあり、あまり詳しく聞くことは出来なかった。

まず、何故これが不思議かという事を書かなければならない。

放射線とは物体を通過する際に原子や分子をイオン化させるエネルギーを持った電磁波や粒子線の事を言う。
例えば人体を放射線が通過する際、体内の水分子をイオン化すると活性酸素が出来る。活性酸素は安定した酸素に比べると非常に反応しやすい状態となっているため、体内の組織を急激に酸化させる。これは放射線の生物への間接的影響。
→参考:日本獣医師会放射線診療技師研修支援システム


また、体細胞内のDNAが放射線によって破壊されると、正常な細胞の再生が行われなくなる。特に分裂の早い造血細胞などには深刻な影響を及ぼし、白血病などの症状が発生する事になる。

前者のような活性酸素の問題は、乾眠状態で極端に水分が少なくなる事によって非常に発生しにくくなる。しかし、後者のように直接DNAを壊していくものに対しては、どんな生物と言えども抵抗できないのではないだろうか?

こればかりはさすがに考えてもわからなかったので、検索してみたらそのものずばり、以下のようなサイトが見つかった。
クマムシの放射線耐性 - むしプロ+
非常に面白い内容なので、ここまで読み進める根気のある方は是非上記記事も読んでいただきたい。

意外な事に、クマムシは乾眠状態だけでなく、水和状態でも同等の放射線耐性を備えているという話だ。同様に乾眠状態に入るネムリユスリカやブラインシュリンプ(シーモンキー)は乾眠状態の方が明らかに高い放射線耐性を示すというところから、クマムシの特異性が一掃際だつ。

仮説はいくつかあるものの、何故水和状態でも高い放射線耐性を持つのかという事に関して結論は出ていないようだ。
トレハロース含有量に関係があるのではないかという話も面白い。トレハロースは高い保湿性を持ち化粧品などに含まれている物質である。

上記の内容はもちろん私の専門分野ではなく、当記事の執筆に当たってはほとんどの内容をWeb上で調べたり再確認して書いている。興味を持った方は是非、ご自分でも深く調べて欲しい。
普段あまり生物分野に触れる事がないので、少し調べ始めるといくらでもわからない事が出て来て面白い。

2013年5月18日土曜日

独り言、言ってますか?

結婚して初めて知った事の一つに、「私は独り言を言わない」という事がある。
いや、正確に言うなら「独り言は特殊は癖ではなく極めて一般的なものだと奥さんは認識している」という事を初めて知った。

上記のように、私は一切独り言を言わない。
独りでいるときも言わないし、家でも会社でも、明確に誰かに何かを伝えたい時以外は特に発話しない。
なので、かなり長い間、私の周囲で独り言を言っている人は、不特定多数に対して意識的にメッセージを発しているのだと思っていた。
ちなみに私が過去に書いた脚本の中の登場人物は独り言を言うが、これはドラマ、映画、漫画、アニメなど創作物の中の登場人物が頻繁に独り言を話しており、主人公の心情を描写したり、間を保たせたりするのにたいへん便利な手法だと思っていたからで、経験に基づくものではなかった。
むしろ、周囲に誰もおらず、話しかける相手もいないのに発話をする人物は実際には稀だろう、という認識でいた。

しかし最近、会社でふとこの話題になり、何人かに聞いてみたところ、私を除いた全員が独り言を言うという事がわかった。日本人3名、アイスランド人、ドイツ人、フランス人という組み合わせなので、日本人特有の性質というわけでもなさそうだ。

続いてFacebookのグループでもアンケートを取ってみたところ、やはり大多数が独り言を言うとの回答だった。ただ、私の他にも1名、まったく独り言を言わないという方がいらっしゃって少々安心。

興味を持ったのでいろいろ調べてみようと思ったが、「独り言」という言葉はコラムなどによく使われているため、それについての心理学的見解を探すのは難しく、CiNiiの論文検索でさえなかなか良いものが見つからず。
仕方がないので、英語検索をかけたところ、いくつか発見。
同種の内容のものがいくつかあったので、以下に見やすかったものを掲載する。

World of Psychology
Talking to Yourself: A Sign of Sanity

タイトルにもあるが、独り言というのは気が確かであるというサインであり、単に寂しさを紛らわせるというだけでなく、様々な効用がある。例えば自己を肯定して精神的な安定をもたらす、発話する事で自らの動機づけを行う、情報を整理して考えをまとめるなど。

また、面白いと思ったのは、独り言を言う自分は異常なのかという質問をする人が散見された事だ。これには頻度が高い、シチュエーションを選ばない、大声で独り言を言ってしまうなども含まれていたが答えは一様にクレイジーな人間というわけではない、コントロール可能である、という事だった。

以上のように独り言とは極めて一般的なもので、言う意味もあるという事が理解できた。
と、言うかそもそも理解していない人間の方が少数派なのかも知れない。

何故私が一切独り言を言わないのかは不明であり、多少検索した程度ではそういう例については特に見つからなかった。そもそも独り言を言わない人間が少数派だとすると、本人も周囲も気づきにくいのかも知れない。

余談だが、私は独り言に限らず、周囲に人がいない時にはまったく感情的なリアクションを取らないようで、面白いと思ってコントなどを見ていても、近くに誰もいなければ無表情である。これは私がテレビを見ていたり、ゲームを遊んでいたりして奥さんの接近に気づかなかった時などに奥さんによって何度も観察されている。無表情でお笑い番組を見る様は非常に不気味だという感想であったが、私自身は省エネ派なのだと思っている。

当エントリにて独り言に関するアンケートを行ったところ、以下のような結果が得られた。細かい比率については母数が十分とは言えないが、独り言をまったく言わない人はどうやら少数派のようだ。

2013年5月16日木曜日

焼き肉を安く済ませるルール

焼き肉屋へ行ったらけっこう高くついてしまったという経験は誰しもあるだろう。
もちろん、それなりに値は張るけれどもおいしい肉を出す、という場合もあるが、そういう時に人は「高くついてしまった」とは思わないはずだ。

人は誰しも、期待に対してどれだけのものが返ってきたかによって物事を評価する。
つまり、「高くついてしまった」というのはそんなに高くなるとは思えなかった、もしくは払った分だけリターンがなかったという気持ちから来ている。

払ったほどおいしくなかった、というのはそもそもお店の問題だから仕方がないとして、焼く肉屋に行くとついつい頼みすぎてしまって、最後は満腹なのになんとか頑張って残った肉を片付けるはめになる、という経験をしたことはないだろうか?

私は焼き肉が高くつくのは、胃袋のキャパシティを越えて頼みすぎるのが原因ではないかと思っている。
これにはいくつか原因が考えられる。

1.ついつい定番を頼んでしまう
たいていの場合、カルビ、ハラミ、タンなど定番を頼む。そしてその後、追加していく。この構造は、全員の意思を統一しようとすると時間がかかるが、定番なら良いだろうという心理によって出来上がる。

2.逐次追加してしまう
焼き肉に行くと人は何故か、ずっと焼いていないと気が済まない。
居酒屋などだと、ある程度料理がなくなってから次を頼む。
しかし、焼き肉の場合ある程度焼いて皿が少なくなって来ると次を頼んでしまう。
これによって、総量がどのくらい頼まれているのか誰も把握していない状態が出来やすい。

3.満腹になるまでのタイムラグ
食事を始めてから満腹を感じ始めるまでに、通常20分程度の時間が必要。しかし、上記の逐次注文によって、これを感じ始めた時にはすでに頼みすぎてしまっている可能性がある。焼き肉の時はビールが進むので、食べて飲んで、アルコールで満腹中枢の働きが鈍くなり、より満腹を感じるまでの時間が延びてしまっている事も考えられる。

と、いうわけでこれらを打破するためのルールを考えたみた。
とは言え、厳格なルールを設けて安く済ませたとしても、せっかくの焼き肉の満足度が下がってしまっては元も子もない。
・シンプルである
・焼き肉の楽しみを阻害しない
この二つには留意したい。

こうして出来たルールは以下
1.一人一皿、自分がいちばん食べたいものを頼む
2.皿が空になったらそれぞれ次の一皿を頼む
3.全員追加を頼みたくなくなったら終了

まず、1のルールは最初の定番注文を回避するためにある。もちろん、定番を頼みたければ頼んで良い。被りが嫌なら違うものを頼めばいいし、たくさん食べたいなら同じ皿を頼めば良い。全員の意思を合わせる必要もないので、速やかに決定できる。
ルール2は逐次注文を防ぎ、総量を把握しやすくするのと、満腹感を感じ始めるまでの時間を稼ぐ効果がある。また、一度食べるのをやめる事になるので、注文してから出てくるまでの間会話を楽しめる。
ルール3は当然と言えば当然。実際このルールは何度も試行しているが、たいてい2周目を食べ終わったところで〆に入って終わる。3周目に入るとしても、全員が頼んだ例は皆無だ。

なお、このルールを作るきっかけとなったのは、だいたい5000円弱で収まるだろうと思った焼き肉会に割り勘で7000円近くかかってしまったという経験による。同じ店でこのルールでもう一度焼き肉会を試行した時は、3000円強で済んでしまった。
もちろん、メンバーや状態がまったく同じではないし、そもそもこの私の問題提起に賛同し、ルールに面白みを感じて集まったメンバーによるので効果が過剰に大きいとも言えるが、それでも倍以上というのは驚きだ。

とは言え、もっとも重要な点は、このルールが理屈通りに作用しているかどうか、ではない。もちろん上記の考察も、提案したルールもある程度の妥当性はあるはずだが、実は問題提起をした時点ですでにある程度の効果があり、さらに通常は行わないルール提案という手段を用いる事で、提起した問題はさらに強く定着しているのではないかと考えている。

なお、上記の内容は一度Facebookに投稿し、一定の反響があった。
投稿から10ヶ月ほど経過した今でも、このルールを使っている、効果があったという声が届くことがあるので、blog上にも投稿しておく。